2009年12月8日火曜日

ウェブ学会にて

昨日は第一回ウェブ学会@東大安田講堂にいってきた!


昼からの「ウェブと政治」では「予測市場」なるものや、東浩紀氏のルソーの話とかがあってとてもおもしろかったので、そこについて考えたことを。


最近は、社会が複雑化しているために「正しい」政策とか判断というもの自体が非常に疑わしいものになっている。じゃあ、ということでグーグルによる一般意思(東さん)とか、ネットによる分割投票とかが話題になっているわけだ。

でもここでdelibarative democracy的に考えてみる。
たしかに現在の技術では(全員の環境が整っていると仮定すれば)、ネット投票=政策ごとの直接投票が可能であり、これはまさしく民主主義の理想のようにも思われる。

しかしながら、ここにおいて民主主義は一面的にしかとらえられていない。このような民主主義は選挙主義以上のものではなく、個人の選好が変化する可能性を捨象している。民主主義は意思決定そのものだけでなく、意思決定の前段階としての熟議(delibaration)を重視していたのではなかったか。間接民主制をとらざるをえなかった理由も、単に意思決定の場にたくさんの人たちを入れることができないというだけでなく、数が多いと議論が形成されないという理由があった。
またもっと正確にいえばここで言っている民主主義とはliberal democracyのことであり、それには多数決とともに、司法による事後的な人権保障がセットになっている。

つまり、ここで言えるであろうことは以下の2つ

技術が進化しても…

1.専門家は必要
その役割が問題だけど、ここは変わらない。

2.議論が必要
ネットによって政策ごとの投票が可能になったとしても、議論までもやるのは難しい。いまのとことネット上の議論を成功させているケースは見当たらない(それを探してるんですけど…)。っていうかこれが可能になったらそれこそ政治家とかいらない可能性も…
もちろん議論によって、ある個人の選好に変化が生じ、その結果として決定される意思にも変更が生じたとしても、それが正しいものとは限らないけど、正統性自体は担保されている。
※でも正統性の話は微妙で、今でも最終的な責任は政治家を選んだ有権者にあると言えるし、ネット上で意志集約とかしても、それはそれで全員が責任を負うってことで了解が得られるかもしれない。

→で、ここで考えたのがアリーナ型の議会制度

イギリスに代表されるウェストミンスター型の議会においては、政策は変更されることは少ないとされており、その分だけ責任の所在は政権党に明確に存在している。でもこれって、「議論いらなくね」ってことになってない?
民主党もイギリスのマネしたがってるけど、どうなんだろう。仮に議論に比重をおかずに、意思決定だけならネットでできるじゃん。っていうか二大政党制下のマニフェストという、2つしかないパッケージのなかから選ぶ必然は?
気候変動抑えるのと暫定税率無料化とかみたいに、政党のマニフェストだって矛盾してるんだから、パッケージの意味もよくわからん。

というか、ここまで書いてきて思ったけど
後半はまじつぶやいてるだけだw

ブログにすればちゃんと文章かくかと思ったのに、最近ツイッターばっかだったからか、まともな文章になってない。ただの疑問・ひとりごとになっている…

ま、次書くときは気をつけよう