2009年12月16日水曜日

社会起業なるものの今後

最近めっきり「社会企業」という言葉を聞く機会が増えた。大学でそんな名前のセミナーをやっていたり、今日いった飲みも「ソーシャルデザイナーズドリンク」だ。
ツイッターをやってる人の中にはかなりそういう系の人が多い気もする。

社会企業、NPO、やりがい、国際協力、

これらは単なる一過性のブームなのだろうか。


違うだろう。

これまで企業はCSRというかたちで社会的責任を果たしているとアピールすることは確かにあったが、利潤追求を第一に考える企業が口にする「社会的責任」は往々にして単なるイメージ戦略となってしまいがちだった。

しかし、現在の社会起業はこれとは本質的に異なるものだ。
そもそも、日本的経営が国民の多くに利益をもたらしており、多くの人にとって大企業に入社することが夢であった時代には、仮に仕事にやりがいなどを求めようとしても結果として「あちら側」のルールに従うしかないだろう。そのルールに従わない限り、ヒエラルキーの下層で暮らすことを余儀なくされ、またそこからはいあがることも困難だからだ。社会はそういう風にまわっていた。

しかし、それもかつての話だ。

日本的経営は崩れ去った。「超安定社会の神話」はもう存在しないのだ。
さらに、社会起業などにより(特にITの分野において)実際に成功している人が現れている。かつてのルールに従っていても確実な成功は遂げられず、むしろやりがいを感じながら仕事ができる「社会起業」が人気となるのもうなづける。

さらに現在30代より下の世代こそは、IT革命(死語?)の恩恵をもろに受けている「ネットネーティブ」である。この世代の人はITを使った新産業、新事業の展開において、先行世代よりも圧倒的に有利である。わざわざ先行世代と同じ土俵で戦う必要もないのである。


と、いう感じで、おそらく今後もNPOや社会起業のムーブメントは続くと思われる。
そして、僕はこれを新「公共性の構造転換」と呼びたい。ちょっと大げさ??w

というのも80年代以降、人々の消費主義・私生活志向は強まり、誰も政治に関心など向けず、向けたと思えば個別利害の表出ばかりという時代に突入し、もう「議論」などによる公共性は不可能とも考えられていたからだ。(少なくとも僕は悲観的にそう見ていた)
しかし現在の状況を見ると、社会変革の担い手となろうという意識のもとに動き、また同様の考えを持つ人々とのネットワークを構築しようという人がかなりいると思われる。そういった人たちが積極的に利用しているのがツイッターなどのメディアである(今日感じたことだが、社会起業を志す人とメディアのアーリーアダプタ層は割りと近いのではないか)。
メディアという、それ自体公共性を考えるうえで有用なものを通じて、公共的なムーブメントが引き起こされていると思うと、僕の修士での研究も非常に楽しみなものに思えてきた!!

2009年12月8日火曜日

ウェブ学会にて

昨日は第一回ウェブ学会@東大安田講堂にいってきた!


昼からの「ウェブと政治」では「予測市場」なるものや、東浩紀氏のルソーの話とかがあってとてもおもしろかったので、そこについて考えたことを。


最近は、社会が複雑化しているために「正しい」政策とか判断というもの自体が非常に疑わしいものになっている。じゃあ、ということでグーグルによる一般意思(東さん)とか、ネットによる分割投票とかが話題になっているわけだ。

でもここでdelibarative democracy的に考えてみる。
たしかに現在の技術では(全員の環境が整っていると仮定すれば)、ネット投票=政策ごとの直接投票が可能であり、これはまさしく民主主義の理想のようにも思われる。

しかしながら、ここにおいて民主主義は一面的にしかとらえられていない。このような民主主義は選挙主義以上のものではなく、個人の選好が変化する可能性を捨象している。民主主義は意思決定そのものだけでなく、意思決定の前段階としての熟議(delibaration)を重視していたのではなかったか。間接民主制をとらざるをえなかった理由も、単に意思決定の場にたくさんの人たちを入れることができないというだけでなく、数が多いと議論が形成されないという理由があった。
またもっと正確にいえばここで言っている民主主義とはliberal democracyのことであり、それには多数決とともに、司法による事後的な人権保障がセットになっている。

つまり、ここで言えるであろうことは以下の2つ

技術が進化しても…

1.専門家は必要
その役割が問題だけど、ここは変わらない。

2.議論が必要
ネットによって政策ごとの投票が可能になったとしても、議論までもやるのは難しい。いまのとことネット上の議論を成功させているケースは見当たらない(それを探してるんですけど…)。っていうかこれが可能になったらそれこそ政治家とかいらない可能性も…
もちろん議論によって、ある個人の選好に変化が生じ、その結果として決定される意思にも変更が生じたとしても、それが正しいものとは限らないけど、正統性自体は担保されている。
※でも正統性の話は微妙で、今でも最終的な責任は政治家を選んだ有権者にあると言えるし、ネット上で意志集約とかしても、それはそれで全員が責任を負うってことで了解が得られるかもしれない。

→で、ここで考えたのがアリーナ型の議会制度

イギリスに代表されるウェストミンスター型の議会においては、政策は変更されることは少ないとされており、その分だけ責任の所在は政権党に明確に存在している。でもこれって、「議論いらなくね」ってことになってない?
民主党もイギリスのマネしたがってるけど、どうなんだろう。仮に議論に比重をおかずに、意思決定だけならネットでできるじゃん。っていうか二大政党制下のマニフェストという、2つしかないパッケージのなかから選ぶ必然は?
気候変動抑えるのと暫定税率無料化とかみたいに、政党のマニフェストだって矛盾してるんだから、パッケージの意味もよくわからん。

というか、ここまで書いてきて思ったけど
後半はまじつぶやいてるだけだw

ブログにすればちゃんと文章かくかと思ったのに、最近ツイッターばっかだったからか、まともな文章になってない。ただの疑問・ひとりごとになっている…

ま、次書くときは気をつけよう

2009年11月22日日曜日

ランドスケープ

みなとみらいで開催中の「学生ランドスケープデザイン作品展」を見てきた。テーマは「50年後のみなとみらい」。
いろんな大学の景観・都市計画を専攻する学生が出展しており、門外漢の僕が感想を述べるのは気が引けるのだけど少しだけ。


というか技術的なことはわからない僕は、主にそれぞれの作品のコンセプトを読んで、作品がどういった問題意識のもとに作成されたかを見てきた。
そこで気がついたのは、ほとんどの作品が現代・未来の問題として「環境」「コミュニティの崩壊」「少子高齢化」「資源」などを挙げていたことだ。そしてそういった問題を都市景観・都市計画において解決しようと試みていた。
たしかにそれらの問題はメディアなどでも大きく取り上げられており、もはや常識と化している。そこでそのような問題を都市景観・都市計画の観点から解決しようというのは、まあ「わかる」。
ただ、そこで僕は、上記のような問題と都市計画を安易に結合し、問題解決を図ろうとしていたことに対する違和感を感じた。というより問題意識がどこまで深いものなのかがわからない。もちろん、なかには深い問題意識から50年後のみなとみらいを構想し、今回出展している人たちもいるだろう。わずかなコンセプト説明ではわからないような意識があったとしても不思議ではない。

だが、未来の都市として構想すべきは「人が集まれるような」とか、「緑がたくさんあるような」という安易な解決策ではないだろう。

そのなかでひとつの作品が気になった。その作品では都市が固定化することを防ぐため、流動性・開放性を高めるという工夫がなされていた(とりあえずコンセプトとしてはそういうことだと受け取った)。「静的なまちから動的なまちへ」ということ…だろう。
他の作品と同様に共同体が崩壊しているという問題意識は前提としつつも、その解決策としてかつての共同体への復帰を構想していない。これからの社会は「知」を含め、さまざまものが分化しており、そのような状況のなかで集合的なものを自生的に作り出していく「空間」が必要だというネットワーク理論的な読み込みも可能だ。
この作品は他の作品のように「共同体再生」「環境保護」という意味を都市に対して与えようとしていない。都市は「からっぽ」なのだ。そこにおいてはその時その時でアドホックに意味が付与される。

そこにいる人は常に移り変わり、フェイスtoフェイスのつながりは無いながらも、その場にはなんらかの意味が創発されていく。それが「都市」の強みなのではないだろうか。

とか思ったり。
まーテクニカルなことはよくわからんとです。


てか相変わらずデジカメがないなー。