2009年11月22日日曜日

ランドスケープ

みなとみらいで開催中の「学生ランドスケープデザイン作品展」を見てきた。テーマは「50年後のみなとみらい」。
いろんな大学の景観・都市計画を専攻する学生が出展しており、門外漢の僕が感想を述べるのは気が引けるのだけど少しだけ。


というか技術的なことはわからない僕は、主にそれぞれの作品のコンセプトを読んで、作品がどういった問題意識のもとに作成されたかを見てきた。
そこで気がついたのは、ほとんどの作品が現代・未来の問題として「環境」「コミュニティの崩壊」「少子高齢化」「資源」などを挙げていたことだ。そしてそういった問題を都市景観・都市計画において解決しようと試みていた。
たしかにそれらの問題はメディアなどでも大きく取り上げられており、もはや常識と化している。そこでそのような問題を都市景観・都市計画の観点から解決しようというのは、まあ「わかる」。
ただ、そこで僕は、上記のような問題と都市計画を安易に結合し、問題解決を図ろうとしていたことに対する違和感を感じた。というより問題意識がどこまで深いものなのかがわからない。もちろん、なかには深い問題意識から50年後のみなとみらいを構想し、今回出展している人たちもいるだろう。わずかなコンセプト説明ではわからないような意識があったとしても不思議ではない。

だが、未来の都市として構想すべきは「人が集まれるような」とか、「緑がたくさんあるような」という安易な解決策ではないだろう。

そのなかでひとつの作品が気になった。その作品では都市が固定化することを防ぐため、流動性・開放性を高めるという工夫がなされていた(とりあえずコンセプトとしてはそういうことだと受け取った)。「静的なまちから動的なまちへ」ということ…だろう。
他の作品と同様に共同体が崩壊しているという問題意識は前提としつつも、その解決策としてかつての共同体への復帰を構想していない。これからの社会は「知」を含め、さまざまものが分化しており、そのような状況のなかで集合的なものを自生的に作り出していく「空間」が必要だというネットワーク理論的な読み込みも可能だ。
この作品は他の作品のように「共同体再生」「環境保護」という意味を都市に対して与えようとしていない。都市は「からっぽ」なのだ。そこにおいてはその時その時でアドホックに意味が付与される。

そこにいる人は常に移り変わり、フェイスtoフェイスのつながりは無いながらも、その場にはなんらかの意味が創発されていく。それが「都市」の強みなのではないだろうか。

とか思ったり。
まーテクニカルなことはよくわからんとです。


てか相変わらずデジカメがないなー。